トランス差別に反対します(2023/03/09)

トランス差別に反対します。

 

公衆浴場とかトイレの話をタイムラインでもちょくちょく見る。

自分もそうだけど(むしろ自分に強く言い聞かせる必要がある)、ネットのそれっぽい議論に乗っからないで、ちゃんと(せめて?)本を読んで勉強するべきだと思う。

 

私個人の感覚の話をすると、自分自身の意見が正しいか正しくないか分からないから気軽に言葉をツイート(すなわちネットに投稿)したくない。

最近になってそういう考えに落ち着いてきた。

数年前までは何も気にしていなかったし、自分自身がマイノリティにまつわる知識について無知だったゆえに、ひどいことを現実でもネットでもたくさん言ってきたんだと思う。

だから、トランス差別のツイートや考えを見ても、「なんでこんなことを言うんだ」という非難の気持ちと社会の雰囲気が悪い方へ転がっていく感じがして嫌だと言う気持ちがある、その一方で、この発言をしていたのはもしかしたら自分自身だったのかもしれないという気持ちがある。

発言者を非難する気持ちと、ただ非難するのは私のすることではないという気持ち。

 

差別の言説は、社会のシステムを形作るといった政治的な面から見て非難されるべきだと思う。差別を容認する社会では、自分の人生を真の意味での自己責任で生きられる社会とは言えないし、多様性のない社会だと変化する世界での発展なんてないんじゃないか(ざっくりしすぎ)と思うからだ。

しかし、その上で、議論と言う形に乗っかって(乗っからざるをえなくて)、対立するというのは避けた方がいいと思う。

一方が一方を排するために戦うという構図はまさしく差別を容認する社会そのものだし、多様性を認める社会の構図とは異なるのではないか。

それよりも、政治的に間違っているとされる言説の人を見捨てないというか、見過ごさないというか、そういう構図こそ自分がとるべき態度のような気がする。

そのためにどういう努力をしたらいいのかというと、自分自身が本(ネットではなく)で勉強して自分だけの視座を獲得することだと思う。そして、「その意見は間違っている」とゆっくりはっきり説明できるようになれればいいと思う。

 

この意見は、トランスではない人間としての立場からのものだから私自身にしかあてはまらない意見だし、軽々しいツイートを見ると怒りに似た感情が湧いてくることもある。

それでも見捨てない。(言葉がこれで合っているのか分からない。上から目線すぎるかも?)

言葉選びが難しいけれど、今対立している人は自分自身だったかもしれない人だということを自分は忘れてはならない気がする。

 

今日は以上です。