2023/01/10
お疲れ様です。
8日の日曜日にアークナイツの3周年リアルイベントDAY2に行ってきました。
アニメの製作トークショーの観覧座席に運よく当選し、それを楽しみにして行った。
声優の黒沢ともよさん、松田颯水さん、松田利冴さん、監督の渡邉祐記さん、副監督の西川将貴さん、そして司会を務めていた石上静香さん……。
全員の感情を生で感じることができて、あの場に来れて幸運だったと思う。
今は配信が充実して遠距離にいてもトークを見たり聞いたりできるようになっているけれど、言葉を発する様子、ためらい、表情など、同じ時間を共にして体感しないと分かり得ない情報、感覚があるんだなと感じた。
こちらのアーカイブで、キャプションの『03:10:00 「アークナイツ 黎明前奏」スペシャルステージ(DAY2)』を選択すると見ることができる。
私は家に帰ってから二回くらい再生した。
熱いうちの感想をここにメモしておこうと思う。
特に印象に残ったのは、やはり黒沢ともよさんのコメントだ。
4:02:00あたりから引用する。
ステージ終了の時間で最後のコメントを求められときのものだ。
私も最後の方、監督の話聞きながら涙こらえるのが必死で……。あ、だめだわ。
思ったんですけど、いやもうほんとに、なんだろう。
さっつんとこうしてお芝居させてもらったのが今回が初めてで、なんか、あの、通信でね、ミーシャとアーミヤがお話するときに、「胸が苦しいの、何でこんな苦しいのか分かんなかったけどやっと分かったの」って話をされるときに、もう本当に心を揺さぶられてミーシャに、ううってなって、それでも前に進んでいかなきゃいけないって言うか、あそこら辺から自分にとってアークナイツって作品がさらに重くなったんですけど。
何か実は、やーもう配信されとるからちょっと怖いんですけど、あの、今日の今日まで、やっぱりこの今生きてる世の中の起こってることとかに対して、「死」とか、「戦い」とかっていうことにすごく葛藤があって。
もちろんエンターテイメントでアートで、皆さんに楽しんでほしくて作ってる作品に携わってるんだけど、戦って、命を落としていく女の子たちの物語に関して、「面白いから見てくれ」って言うことにすごく、ずっと葛藤があったんですけど、さっき監督たちが、あの、繊細に物語を創って下さっている話を聞いて、アークナイツのアニメの現場に行くときは、なぜかこう安心感を持って物語を生きることに徹することができていた記憶がよみがえってきて、
いつも、「こんなに人が亡くなっていく描写はどうなんですかね」って話をしてもね、「面白いでしょう」って言われたりとかすると葛藤することも多かったんですけど。
やっぱりアークナイツの現場は苦しいけど進まなきゃいけないときもあって、それを、代わりに私たちが生きることで何か見つけていくこともあるかもしれないから、立ち向かわなきゃいけないっていうスタンスでものづくりをしているんだっていうことを今回監督たちのお話を聞いて改めて実感することができて、自分の中でもアークナイツっていう作品に対する思いがより一層深まった時間になって、26歳にもなってこんな大勢の前でべそべそ泣いているわけでございますけれども。
あの、二期もですね、本当にすごい、あの、先輩方がですね、台本を読んで現場に来た後に「これは丁寧にやらなくちゃいけないね」って一言言って収録に挑まれる姿が印象的な収録でありました。
そんな二期もこれから控えておりますし、二期も精いっぱい演じさせていただいたので、そちらもどうぞ、楽しんでいただければなと思いますし、それはそれで、ゲームはゲームで、ゲームも楽しんでいただければなと思います。
べそべそ泣いてすみませんでした。今日はありがとうございました。
書き起こしって難しいな……。文章にしてしまうとあの時の黒沢さんの気持ちが全然伝わらない気がするし、本当に動画を見てほしい。
ここで私が感動した点は三つある。
物語をエンターテインメントとして消費する側の構造上の暴力性への葛藤、その壁に向き合い続けたこと、そして、苦しいけど進む・立ち向かわなきゃいけないっていうスタンスにたどり着いたことだ。
まず、構造上の暴力性について。
ゲームやアニメに限らず、物語をエンターテインメントとして提供することには暴力性を伴う。
すなわち、物語には、物語で描かれる人物を対象化することと、創作者側は読者を楽しませるために人物を描くということ、この二点が構造として存在している。
この構造が上下の関係を作り出し、描かれる者に対する暴力になっている。
受動態と能動態の関係、その構造はどうやっても覆せないのではないか……と感じる。(それに抗っている作家もいると思う。)
構造の暴力性は何が問題なのか。
いくつもあると思うが、ここでは、物語で描かれる人物の性質と現実で生きている人の性質が重なっている場合の問題を考えたい。
今回のトークで黒沢さんが意識していたのは、2022年2月24日にロシアがウクライナ侵攻を開始し、今も戦争が続いていることだろう。
死や戦いをテーマにして命を落とすキャラクターを描いている作品は、死や戦い、命を落とすキャラクター描くという行為により、それらを商品化してしまうことを避けられない。
その行為の別の場所では、今この現実で、死や戦いが起こっていて、苦しんでいる人が存在している。
創作者側としては、死や戦いを描いていいのか、他者に見せるための物語にしていいのか葛藤するだろう。
さらに、創作者だけでなく視聴者も含めると、死や戦いを消費していいのか、作品を受容して自分の営みに利用していいのか、後ろめたさや迷いが生じる。
黒沢さんも言及していたが、死を扱うことに対して「おもしろいでしょう」と言われたり、誰かを傷つけるという意識に欠ける人もそれなりにいるのだろう。
だから、この葛藤を抱えているだけで、私は黒沢さん、ひいてはアークナイツが好きだ……となった。
次に、暴力性の壁に向き合い続けたこと。
創作物が持つ構造上の暴力性は、変えられないのではないかと思う。
しかし、私たちはこの性質に直面し続け、葛藤し続けなければならないと思う。
自分は主に二次創作で創作者側の経験があり、視聴者側の経験もある。両方の立場から、ずっとこの暴力性と対峙しなければならないと感じた。
こういう構造であると諦めて、今生きている人の心を傷つけなければ人の心を動かせないとしてモノづくりをするということは、自分にはちょっと受け入れられない。
もしかしたら答えや出口はない問題かもしれない。
だから、諦めるというのも一つの答えかもしれないけれど、その意識で作られた物語を見たいかというと、見たくはない。
答えなんかだせなくても、苦闘した後に見れる景色が見たいし、そういう物語が世の中にはあってほしい。
仮に失敗しても、それが戦った結果なら、仕方ない……と、創作者の立場的には言いたいけれど、失敗した結果、今生きている誰かが傷ついている。
仕方ない、とは言えないし、戦い続けなければならない。
最後に、苦しいけど進む・立ち向かわなきゃいけないというスタンスについて。
これは、黒沢さんたちが出した、暴力性の壁との戦い方だと感じた。
そして、苦しいけど進む、というのは、アークナイツで描かれているアーミヤやロドスの立場と合致するのがすごく不思議なようで、必然のようだった。
黒沢さんの話し方から本当に苦しみながら作ったんだと言うことが伝わってきた。
物語を創ることによって、創作者が創作された者の感情を知る。
そこには不思議な円環があった。
監督やキャストの創作者のみなさんが、命を大事に、大事にと精神を削りながら創った物語がその思いに応えている。
作る側も傷ついているんだ、という話とは違う。作る・作られるの構造は何一つとして変わっていないから。
本当に苦しいだろうけれど、私はこの物語を見れることを、やはり楽しみにしている。
つらいと思うけれど、これからもこの物語を見せてほしい。
そして、代わりに私たちが生きることによって見つけられるものを探していきたい。
黒沢さんの他にも、松田颯水さん、松田利冴さん、渡邉祐記さん、西川将貴さん、全員の話に感動するところがあった。
松田颯水さんのラストのコメントも、アークナイツならではと言っていいのかわからないけど、苦しさが混ざったコメントだった。そちらもすごくよかった。
アークナイツ三周年、本当におめでとうございます。
全然話は違うが、今日も本屋で本を買った。
最近、近くにあった本屋がなくなってしまい、少し遠い場所まで足を伸ばさなければならなくなった。運動になるかな。
斜線堂有紀「楽園とは探偵の不在なり」を読みました。
よかった。主人公の悲しみを起承転結に利用しない感じがあってよかった。
あとミステリーもよかった。トリックや謎も複数あって、見どころもより取り見取りという感じだ。
余計な情報を削ぎ、自我を抑えめ(?)な文章もよかった。結果的にこの作品にかなりマッチしていると感じた。
日記と言いつつ複数日にまたがってこれを書いていた。
お疲れ様でした。